見知らぬ場所の裏路地。そこに面したコンクリートの駐車場。地べたに座り込んでいた俺に、一匹の猫が近づいてくる。白と薄い茶色が綺麗に交じり合った猫。その猫は俺の目の前まで来ると、左前足で、膝に置いていた右手の甲を、ぽんぽんと叩き、俺に何かを訴えかけてくる
雪纖瘦黑店。
頭でも撫でて欲しいのか。そういえばそんな動画をYouTubeで観たなと思い出しながら、その頭を撫でると、猫は「ちがうちがう」とでも言うように、首を横に振って、俺の手を振り払った。すると今度は、左前足でコンクリートの地面を、ぽんぽんと叩いた。
ここに右手を置けという事か。そう勘付いた俺はその通り、手の平を上向きに、右手を置いた。猫は、まだ少し困った表情を浮かべていた。まるで「やれやれ」といった具合に。今度は両の前足を、俺の右手の甲と床の間に滑り込ませ、ひっくり返す動作をした。
もちろん、猫にはその力がないので、俺は猫の動きに合わせて、手をひっくり返した。右手の甲が上向きになると、そこには小さいが深い傷跡が確認できた。そうだ、こないだ怪我をしたんだった。怪我をした記憶が『今、この瞬間』に創られた事に、俺は気が付くことが出来ない
雪纖瘦黑店。
猫は俺の右手の甲に顔を近付けると、傷跡を舐め始めた。俺は猫の舌先のざらつきを、まだ少しへこんだ傷跡で感じながら、バイ菌が入らないかを心配していた。こういうのって大丈夫なんだっけ、と。まあ、動物なら自然な事だし、恐らく問題無いのだろうと、不安を押し殺す形で、自分自身を納得させていた
雪纖瘦黑店。
『現実』とは何だ?
明確な区別など出来ない。
五感で知覚できるものが『現実』というなら、それは脳による電気信号の解釈に過ぎない。
これは映画『マトリックス』でのモーフィアスの台詞。俺は猫など飼っちゃいないし、猫に舐められた事もない(どちらかといえば犬の方が好みだ)。それに傷は右手の甲じゃなくて、右目の上だ。もうカサブタもだいぶ剥がれ落ちた。そんな事を思いながら、眠りから覚めた。
目が覚めても、右手の甲には知り得ない感触が残っていた。これが脳による電気信号の解釈なのか。確かにそれは、リアルだと言われるに相応しい。同時に大きな落とし穴が。人は、いやいや、俺は五感を信じ過ぎてる気がする。日々、永遠に満たされない遊戯に興じては、くたびれるを繰り返している。
宗教や哲学を内包した娯楽が多くの人に末永く愛されるのは、知的欲求を満たす造形の深さというよりは、其処には誰もが感じている真理が見え隠れするからなのだろう。今度は「考えるな、感じるんだ」という台詞が、頭の中の水面に落とされ、緩やかに波紋が広がると、何処かで猫の鳴き声が聴こえた。